上を下への (お侍 習作113)

        〜 お侍extra  千紫万紅 柳緑花紅より
 


      
おまけ というか後日談というか


 まるで置き去られた箱庭のように、山野辺にぽつんと開けていた鄙びた湯治場の中ほどに、その小さなお宿はあった。手入れをする人手がないものか、それともそれが此処なりの風流なのか、伸び放題にされた萩とアジサイが入り混じった茂みが敷地を囲う柵代わり。今くらいの時期は昼間になると蒸し暑くなる中、それでも草いきれが清々しく。また、朝晩は涼やかな風もそよいで過ごしやすい。住む人も少ない土地なれど、昔はそれなりの格ででもあったものだろか。こんな片田舎には珍しい造作、囲炉裏のある支度の間と、畳敷きの居室が揃った小粋な離れが気に入って、そこを一月ほど前金で借りたのは、最初からそのつもりの長逗留の構えであったから。というのが、ここに来る直前に立ち寄った土地での騒動で、壮年殿が珍しくも怪我を負った。広くて頼もしいその肩や背中へと、容赦なく降って来た岩礫でしたたかにぶたれたその余燼。山一つ降って来たほどもの凄まじい落盤の最中にいたのだ、どこの骨も折らなかったのが不思議なくらい。元は天穹を翔った もののふだとはいえ、そんな頑丈さを過信した罰、こたびはさすがに少々難儀な痛みをその身へ残した勘兵衛だったので、打ち身に効くとの噂も高い此処の秘湯へと、大事を取っての逗留中。足腰立たなくなった訳でなし、浅黒い肌の上からでは、痣もそれほど目立ってはおらぬが、

 「…っ☆」

 湯上がりの火照りの上へ、ひやりと冷たい塗り薬をたっぷり載せた不織布を貼ってやると、さすがにその落差は大きに感じるものか。大きな肩をひくりと震わせるそのたびに、年若く物慣れぬ連れ合いにも、ついついの“ひくり”という肩を震わすほどもの慄きを誘うのが、見ている者があれば少々滑稽だったかも。

 「…?」
 「いや、それほど痛む訳ではないのだがな。」

 痛むのか? 染みたのか?と、指先の綺麗に整うた、やや小ぶりで冷たい手を湿布の上へそおと載せ。布団の上、天井を向かずの横向きになって臥している、雄々しき連れ合いの肩を撫でてやりつつ伺い案じる細おもてのお顔が。ちょいと見には凍ったまんまな無表情なれど、勘兵衛にしてみれば…何とも頼りない心細げなそれに見えたので。大事ないから案ずるなとの励まし乗せて、仄かに微笑って見せたれば、

 「〜〜〜。」
 「痩せ我慢はよかったの。」

 心細げから打って変わって、ほんの少ぉし眸を力ませての怒ったようなお顔になったは。こちらが無理をしていると察しての叱咤のお顔。ああこんなにも感情載せての表情豊かになってまあと、やはり苦笑が絶えない壮年殿だったりするのである。

 “これも七郎次のおかげかの。”

 虹雅渓の下層街で出会った初見の彼は、眸を開けて眠っていたかのようだった。刀でしか事象への価値観を見い出せず、生死を分ける境という最も危険な淵の一番尖った切っ先に立ち、触れるものを片っ端から切り裂いては、その手ごたえだけをよすがにしていた。彼こそが刀そのもののような危うい生き方をしていた青年だった。そこから叩き起こしたのはこの自分かも知れぬが、そんな彼へと生への息吹を教えたは、間違いなくあの世話好きの美丈夫で。何物へも関心がなかった、心からの根無し草だったものが、今や…人への執着を覚え、世話を焼こうとまでするようになったは、これ以上はない大進歩ではなかろうか。

  ―― という、
      何ともほのぼのとした至福を噛みしめておいでの、
      勘兵衛様の心情とは ちと外れたところで。

 本人には自覚が薄いのかもしれないが、やはり痛みはするのだろ、身動きの端々で こそりと眉をしかめる勘兵衛であるのを眸にすることが多い久蔵にしてみれば。歴戦の猛将として穹で叩き上げた頑丈さをもってしても、あれはさすがに太刀打ち出来なんだほどの事態であり、軽くはない疲弊消耗なのだという事実と向かい合い、
「…。」
 辛かろうにとか哀れにとか、いたわってやらねばという真っ当な感慨をい抱くと同時、

 「…。///////」

 寄せられた眉の陰にて伏し目がちとなる目許の憂いやら。こちらを案じさせまいとしてか、ふっと視線を逸らしてしまう憂鬱そうなお顔に浮かぶ淡い翳り。横を向いて伏せていることから、どうしても浮いて緩んでしまう寝間着の胸元、前合わせの陰へ、思わせ振りにちらりと覗く褐色の肌や首元の深みに覗く筋骨のうねり…などなどなど。打ち沈んでの安静にしているだけの身の壮年殿から、なのに滲み出す微妙な色香の気配というものを。こちらもこちらで…慣れぬ種の無聊に惚けてでもいるからだろか、妙に鼻が利いてのいちいち拾ってしまうらしく。平常にあってはさして目につかないだろし、見ていてもさして気にならなかったはずのそれらへと、そもそも憎からず想っておればこそのこと、ついつい視線が捉えられての剥がせなくなること多かりしな久蔵だったりし。

 「久蔵?」
 「…っ。/////////」

 な、何でもないないと大仰なくらいにかぶりを振ってから、寝間着代わりにしている小袖の、肩口や衿元を整えてやり。さあさ横になって休むがいいと、粗末な上掛けを肩まで引っ張り上げてやる若いので。…誤魔化したわねvv
(笑) 粗末なそれと侮って、思わぬ綿の重さにあい、掛け布団のへりを掴み損ねた手が弾かれたような勢いで飛んで来て、顎をしたたか ぶたれたは、確か二日前のこと。慣れないことだらけであたふたしていた姿もまた、愛しいばかりであったけれど。今や すっかり手慣れてしまっての、

 「…。」

 いい子いい子と衾の上から撫でる手の、随分と大人ぶっている所作もまた、これはこれで愛しくて。

 「…。」
 「? いかがした?」

 指先の冷たい白い手が、頬にこぼれ落ちる蓬髪をしきりと掻き上げていたものが…つと止まる。どうかしたかとキョトンとしている勘兵衛のお顔、まじっと覗き込んでの、それから。

  ―― ぱたり、と

 畳の上へその身を倒してしまった久蔵であり。いかにも重さを感じさせぬ、舞いのような軽やかな様子であったことと、真っ直ぐこちらのお顔を見やったまんまというあたり、急にどこやら痛んでのことではなさそうで。立っていても細いお膝や足元を覆い隠すほどもの、裾長でたっぷりとした上着の生地を、お花のように周囲へ広げて座してたまんまの横倒し。白い頬がいや映える紅衣の端を下に敷き、畳に伏せての横になると、

 「…お。」

 寝具の傍らに座しているよりずっと、視線も温みもそりゃあ間近な距離となったので。さてはこれが狙いであったかと、その唐突な行動の裏書へ気がついて。再び延ばされた手のいたわり、そろそろ・ふわりと頬を撫でてくれる感触にか、それとも…いかにも幼い思いつき、なのにそれをやってのけた青年の屈託のない稚さへか。戦さにおいては正しく年経た猛禽のように、重々しくも厳粛でありながら、鋭利で隙のない眼差しをする彼が。今はそれもはんなりと緩めての、まろやかな苦笑がなかなか止まらぬ勘兵衛であったりするのである。






   ◇ ◇ ◇



 三度の食事とそれから、効能高い源泉から湯を引いているという風呂を使わせてもらうこと。此処での逗留で、離れの使用のほかに契約してあるのはその二つであり。どちらかと言えば客あしらいより畑仕事に割く時間の方が多いせいか、あんまり愛想がいいとは言えない初老の女将も、料理の腕は絶品で。地のものだろう身の絞まった山鳥や肉厚なヤマメをふんだんに使い、山菜の煮つけや少し堅いめの豆腐を使った里の料理も、その味つけや取り合わせの種類がずんと豊富であり。食べるものへの贅沢はさして言わないが、それと同じほど褒め言葉も知らぬ、何とも淡白で朴念仁な男二人が。料理を運び来た彼女のそれと判る足音に気がつくと、おおそんな刻限かとついつい顔を見合わせての楽しみにしているほどなのだから…推して知るべし。本日の朝餉も、地鳥の生みたて玉子を半熟になるよう落とした青菜のみそ汁と、沢の小魚の佃煮に、瓜の古漬け。それと昨夜の飛龍頭の煮つけの残りの、一晩越して味が染みたのという、なかなかに贅沢な品揃え。そうまでの至れり尽くせりはありがたいものの、

 『こうも体を動かさぬようではあちこち鈍り切ってしまうやも』

 などと、壮年殿が冗談半分に言ったのを真に受けたものか、昨日からのこっち、昼間のうちから人をよしよしとあやしては、眠ったのを見透かしてこっそり外へ、裏庭へと出ているらしきお若いの。どうやらこっそり刀を降っているらしく、日頃も…右腕の療養以外では、目に見える鍛練や習練などというもの、嗜まぬ彼であったのにと思えば。一つところに長く居るということ自体が稀なこと、実のところは早く発ちたい彼なのやも知れず。

 “風来坊の性まで植えつけてしもうたか。”

 これはしもうたと、苦笑してしまう勘兵衛だったりもする。そんなこんなを思っておれば、
“…お。”
 ほんのついさっき、自分を寝かしたと思い込み、離れからこそり出て行ったはずの久蔵の気配が、案外と早く戻って来た。もはや自然な性分として、余計な気配を消して行動する彼だが、ここいらのように土地の気が満ちた場所ではそんな必要もなく。制御しないままだと“気配のない何物か”という形で却って浮き上がってしまうのでと、もっぱら自然体でいるらしいのが、
「?」
 何だか妙に急いてる模様。何かあったか、よもや我らへの筋違いな報復抱えた無頼の輩でも大挙したものかと。気配読みだけでは収まらず、夜具の上へ むくりと身を起こし、枕元へと据え置いた愛刀に手を延べたものの、

  ―― がたがたばたん、ぱたぱた、ごそごそ

 いやに明け透けな賑やかさなのへと、
「???」
 これがあの久蔵の立てている物音ならば、あまりにらしくないことではなかろうか。気配を消す必要がないこととは別次元。日頃、行儀のいい洗練された所作を見せる彼なのは、引っ繰り返せばそれらが無駄を省いた機能的な動作だから。それもまた、戦時中にその身へ染ませたものだろう、最低限の手間、最低限の動作で済ますように振る舞うことが、基本として刷り込まれているがため、見苦しい粗相もしなければ耳障りな物音も一切立てぬを善しとしているものが。板戸の開け立てや框へ上がる動作へ、ああまで身動きを響かせようとは異なことと、勘兵衛としては怪訝に感じる外はなく。

 「久ぞ…。」

 一体何の騒ぎかと、こちらの居室への襖が開くのへ声を掛けかければ。それより先んじたのが、

 「勘兵衛様っ。」

 いかにも息せき切ってやって来ましたという勢いで、飛び込んで来たのは誰あろう。

 「…七郎次か?」
 「アタシが他の誰かに見えるほど、頭をぶたれてしまわれたのですか?」

 冗談口にも聞こえるような言いようをしはしたものの、その表情はなかなかに真摯なそれであり。こうまで陽の高い時間帯だというに、それまで横になってたらしき寝具の上へ とりあえず身を起こしただけという御主の姿には、さすがに感じ入るものがあったらしかったが。それでも…大事は無さそうだと感じ取れはしたものか、畳の上へ へたりと座り込むと、夏向けの衣紋だろう、藤色と水色の色襲
(あわせ)も涼しげな単(ひとえ)を重ね着た自分の胸元、揃えた両手をとんと伏せるようにして押さえ。はぁあと長い吐息をついて見せた彼だったりしたのである。




 「どうもこうもありませんよ。
  一昨日の晩に電信をかけたらば、
  久蔵殿が“島田が臥せっておるので当分は帰れぬ”などと仰せになるんですもの。」

 前のお越しから随分と日も空いている。そろそろ自分らが待つ蛍屋へもお寄り下さいませと、そんなご挨拶のついでを装って、お元気ですかお変わりはありませぬかと訊くのが主旨のお伺い。常ならば、他愛ないお喋りをこちらから持ちかけるのへ、言葉少なに…それでも嬉しそうな気配を伝えてくれる次男坊が。そんなとんでもないお言いようを、それも開口一番のそちらから、きっぱり並べたものだから。一体何があったのか、混迷の最中にいるのなら日頃の寡黙さ以上に口が回らぬ彼かも知れぬ、問いただすよりこっちが早いとばかり、すぐさま虹雅渓を発った彼であるらしく。
「…式杜人の高速艇を使こうたな。」
 あの街からこんな辺境まで、どんなに急いでもほんの2日で着けよう筈がない。とすれば…と、思い当たったものの大仰さへこそ、彫の深いご尊顔を呆れたそれへとしてしまう御主だったが、
「それこそ今更ですよう。」
 悪びれもせで笑った金髪長身の美丈夫こそ、先程たまさか思い浮かべていた彼らが知己にして、先の仕事で同座した弦造殿の今の姿の雛型でもおわします、七郎次という元・副官ご本人。大方、裏手で刀を振っていた久蔵へまずはの声をかけ、わわと驚かしもってのご入来となったから、らしくもない物音立てての飛び込んでしまった若いのであったらしく、

 「おやまあ、そんなことがあったのですか。」

 ようやっと、事の顛末を聞き終えて。大事を取って臥せってはいるが、満身創痍というほどではないとの勘兵衛の案配病状、やっと飲み込んだ七郎次としては、

 「怖い想いをしましたねぇ。」

 まずはと慰めたのが、慣れないことだろうに付き添い役を頑張っていた久蔵で。頭の上から一気に降り落ちて来たった岩盤も恐ろしかったでしょうけれど、
「大切なお人が目の前でそんな無茶をしたなんてねぇ。」
 ぶたれる痛さからは庇われたとて、さぞかし命が縮む想いをされたことでしょに、と。すぐ傍らに寄り添うように座してた青年へ、こちらからも膝立ちになっての擦り寄ると。細い肩やら背中やらへと腕回し、尚のこと引き寄せたその痩躯、懐ろの中へと迎え入れ、ぎゅうと力込めて抱いてやるところが、相も変わらぬ母親ぶりで。となると、
「…しち。////////」
 あんなくらいは平気の平左だよと落ち着いた素振りでいた久蔵も、実をいや まだまだ影響が残っていたもの、強がっての隠していたらしく。当時の恐慌や緊迫を思い出したか、優しくて頼もしくもある彼にくるまれて、心細かったその残滓のようなもの、今やっと“はあ”と吐き出せたようなお顔になるから…おっ母様ってやっぱり凄い。
(苦笑) 久蔵の側からもやさしいお背(おせな)へまでその腕を回し、うっとりと凭れるようにしてしがみついておれば、

 「そういえば、神無村にいた頃にも…。」

 何を思い出したか、くすすと笑った七郎次。微笑に含まれた甘い吐息へ、
「?」
 はてと小首を傾げて見上げて来た、金髪色白の…彼からすればかあいらしい坊やへ向けて、
「ほら、覚えておいでじゃあないですか?」
 おっ母様が言い足したのが、あの神無村での懐かしい一幕で。野伏せりの強襲に備えての、戦さ準備の一環として。本当に飛ばした巨大な弩
(いしゆみ)とは別口、丈の短い丸太の張り子(デコイ)、物見の岩屋へ幾つも設置していたその折に。そのうちの1つが数人がかりの制御を外れ、待ち受けていた皆の上、ドスンと落っこちかかった騒ぎがあった。幸いにして怪我人は出なかったものの、あわや下敷きになりかけたのがこの七郎次で。だが、そんな危機にあった彼を、この久蔵が何処やらからツバメのような素早さで飛び出して来ての掻っ攫い、紙一重という際どさで 事無きを得た…という一幕があったのを思い出した母上であったらしくって。(参照『奇禍』)

 「久蔵殿だって、アタシを庇って無体な真似をなさったことがあったのに。」
 「〜〜〜。/////////」

 そんな無茶をばしたお人が、こたびは逆に 誰かが自分を庇って身を呈したことへハラハラもしたし、立腹なさりもしたなんてねと、
「いいお勉強になりましたね。」
 徒に揶揄するでなくのそんなお言いようをなさるおっ母様へ、
「…。///////」
 若気の至りへか真っ赤になってる次男坊はともかくとして、

  「そんな話は聞いておらぬぞ。」

 今の今になって、そんな大事への蚊帳の外にされてたらしい事実を知って、今度は御主の方が…いかにも不機嫌であるぞと言いたげなお顔になってしまわれたのだった。





   ◇  ◇  ◇



 少し標高があるせいか、降りそそぐのはここでもすっかりと夏の陽射しであるのに、吹き来る風はまだまだ爽やかなそれであり。いいお湯があることといい、交通の便が不便なのもまた静寂を約されているものと解釈すれば、病気療養には格好の土地だろて。
「変われば変わるものですね。大戦の頃は、風邪を引かれてもお怪我をされても、決してアタシに看病させなんだお人が。」
 戦さ場での負傷や、極寒の地での半端な宿営が元でこうむったひどい感冒などなど。良親殿や征樹殿に補佐させて、隊の管理を全うせよとしか仰らなくて。完治なさって自分から兵舎へお戻りになるまでは、医療室への出入りを差し止めてまで、会ってさえ下さらなんだこともザラでしたのに。
「年若い副官を不安にさせるだけだからと、弱ったところ、見せとうはなかったのでございましょうか?」
 手拭いやら寝巻きの着替えやら、自分たちで洗ったものか ぞんざいに重ねて部屋の隅へと積まれてあったのへ目がいったそのまま、自分のお膝の上で一つ一つ丁寧に畳みつつ、そんな懐かしい話までもを引っ張り出してきた元副官へ、
「…馬鹿な。」
 寝床に臥し直したまま、そんな大仰な気構えなんぞなかったわいと。吐き出すように応じてのそれから。看病といっても久蔵が手掛けておるのは湿布を貼り替えるくらいのことだぞと、小さく苦笑し、
「それに、軍には救護の者が居やったろうが。」
 だからして、それぞれの役割分担に準じたことをさせたまでと、あくまでもそんな屁理屈を言い張る御主へ。
“…ここでだって、手伝いのお人を雇えば済むことでしょうに。”
 思いはしたがそれ以上は野暮なので口には出さず、

 「久蔵殿の覚束ぬ手で世話されるのが、嬉しくて嬉しくてたまらないのでしょう?」

 途端に、ちらと眉を寄せかけた勘兵衛だったのは。人を妙な嗜好の持ち主のように言うなとでも思ったか。だが、それを口にまで乗せなんだのは、七郎次が思い止どまったのとは少々意向が違ったようで、

 「まだ、変わらぬと思うか?」
 「いいえ。」

 お変わりになられたと言う相手へ、妙なことを唐突に切り出された御主ではなく。それが証拠に、仄かに苦いものでも舐めたような顔になった七郎次であり。ここまでは冗談口でしたがと言わんばかりに、その顔つきを真摯なものへと差し替える。自分がどれほど頑迷かは、勘兵衛自身も重々承知しているし、恐らくは七郎次も同じく。よって、いい方へと変わったならばわざわざ口に出すまいと思うたからこそ、ということはやはりまだまだそう簡単に変わるお人じゃあないと言われておるものかと感じたらしい彼であり。だが、
「勘兵衛様は、そも、人を信じぬお人ではありませなんだ。人を育てるのもお好きな方でしたし。」
 人を唆して意のままに動かすのが上手とか、そういうのとはまた別に。能力的なことからのみならず、それが相手の成長に繋がりそうなことという観点からでも、任せていいことは人へ任せて責は自分が負うという面倒や忍耐を、苦にするお人じゃあ決してなかった。ただ、

 「ただ。ご自身については捨て置けと、そんな風に振る舞われることが多かった。」

 鋼のような堅い心でいなくてはならなかった大戦時代。命を張っての死線を乗り越えあった、苦楽を共にした頼もしい仲間や、何くれとなく可愛がってもらった先達の皆様。慕ってくれた後輩などなどが、自分を置いて次々に亡くなってしまっても。それを悼む暇さえ無いまま、新たな任務や任地へ飛ばねばならず。どんなに哀しくとも、そんな自身の心まで…非情さで見切っての冷徹に切り替えられなくてはならなくて。司令官だった勘兵衛においては尚のこと、どんなに大切なお人を亡くしての衝撃を受けた直後でも、今 抱えている命を何としてでも永らえさすことの方が先決だったがため、心凍らせる必要があっての冷淡さ、無理から育んだに違いなく。そうやって培った哀しい意味での頑健さもて、我へは構うなと、それこそすげなく振る舞われることも多かりしな、頼もしいけど素っ気なくもある御主であったのだけれど。

 “ああでも、それもこれも もう終しまいにせねばなりませぬ。”

 他者の幸いばかりを支えて来た勘兵衛にも、そろそろ自分の幸いを真っ当に考えてもらわねば、世話になった者が落ち着けない。それでと押し付けた訳ではないながら、

 「されど…久蔵殿に関しては、そうも言っておられぬのでしょう?」

 年端も行かぬお人への指導の上でというよな、一向に味気無い話では勿論なくって。あの、何へも覚束ぬお人の“初めて”を、全て捧げられる至福を堪能しておいで。それでなくとも、
「どこまでだってついて行くおつもりの久蔵殿に、勘兵衛様の側からだって心酔しておいでであるのは、もはや周知の事実ではございませぬか。」
 そんなお人へ よもや“構うな”などとは、口が裂けても言えますまいよと。これまでたんと歯痒い想いをさせられた、その分もと言わんばかり。満面の笑顔を添えての、わざとらしくも軽い口調で囃し立てれば、
「…。」
 途端にむうと表情が硬化した元・上官殿だったけれど、今更そんなくらいで怯んだりはしない。むしろ、何とまあ判りやすくなられたことよと、品のいい口許ほころばす笑みがなかなか止まらない。ただただ渋いお顔ばかりなさるのへ、素知らぬ振りを続けつつ、
「さて、久蔵殿はどんな大物を釣って来て下さることか。」
 宿の女将と共に、沢までヤマメ釣りにと引っ張り出された次男坊。そのような柔らかいところまで培えたのは、果たして…この頑迷な男の傍らに居たことで人性の尋を広げるすべを養ったからか、若しくは頑ななばかりではいかんという“反面教師”としたからか。少なくとも自分のように、正体のない不信からくる逡巡から、肝心な何かを見失わぬよう、そこだけを見守って差し上げねばと改めての心したおっ母様。だとすれば二の次にされよう御主へは、それは綺麗な笑みで頬や口許ほころばせ、それはそれは楽しげに、ころころと笑ってしまわれる。障子を開け放った濡れ縁の先、瑞々しい緑の中では、誰が植えたかノウゼンカヅラの朱色の花が、涼風にくすぐられ、ゆらゆら揺れた昼下がりのことでございます。




  〜Fine〜  08.7.11.〜7.12.


  *あの騒動の後日談でございますが、
   間を空けたせいですか、完全に別の話になっちゃいましたね。

めるふぉvv めるふぉ 置きましたvv **

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